はじめに
『「努力をすれば報われる」だから努力しろ』このような一見鼓舞しているように見える言葉があります。実際、優秀な人ほど努力していますし、努力しなければ当然何も身につきません。ですが、努力と言えども努力ができるような人というのはある意味で努力ができる動機があるわけです。なので、努力をすれば報われるはある意味で正しくはあるけれども、努力をする理由は人それぞれなわけです。
言うのは簡単
「努力をしろ」とは言うだけなら簡単で、誰にでもできます。ですが、いざ努力をするとなると誰にでもできません。それはなぜかと言うと、それを成し遂げたいと思えるほどのネガティブな動機がないから、です。例えば、家庭が貧しくて周りに馬鹿にされた、だから見返したい。とかです。人が何かをやる気になるときにはポジティブな動機よりも、ネガティブな動機の方が強くでます。私の個人的な感覚にはなりますが、名をあげるような人は幼少の頃にネガティブな経験をしているように感じます。そのほとんどは人に馬鹿にされたり、いじめられたりして、見返してやりたいというものだと思います。その跳ねっ返りが強ければ強いほど見返してやるための努力もまた一層強くなります。
つまり、こういう一連の流れを含めたことを「努力」と読んでいるだけであって、「努力」が単体であるわけではありません。言い換えると、「努力」は誰にもできないということです。もう少し補うと、「努力をしろ」と誰彼構わず言ったところで、努力ができるかどうかは「努力をしろ」という人には全く関係ないということです。むしろ、「努力をしろ」と言って相手が努力をしたと思っているのならそれは勘違いで、たまたま努力ができるようなネガティブな過去を持っていただけで、決してあなたのおかげではないということです。はじめにも言いましたが、具体的なアドバイスも何もしないくせに「努力をしろ」だけ言うのは誰にでもできます。むしろ、「努力をしろ」って言った者勝ちみたいでせこいんですよね。
自己愛性人格障害です
というのを自己愛性人格障害はやります。一言で言えば、せこいです。自己愛性人格障害はせこい人です。これはおそらくパワハラおじさんの昭和な考え方にも通じるもので、というよりも昭和な考え方や育て方、育ち方というのが自己愛性人格障害を作っているのだと思います。人を罵倒して怖がらせて意地で這い上がらせる。これが昭和な考え方なわけですが、言わばその時代はそれだけで這い上がれるほど簡単だったわけです。よく昭和のおじさんは「最近の若者は」と言いますが、これもまたせこいわけです。「最近の若者は何も知らない」と言うけれども、その若者に対して何も教えていないのはその昭和のおじさん達です。言わば、自作自演をしているわけで、教えてもいないのに「何も知らないのか!」と怒ることで永遠にマウントをとれるからです。
「努力をしろ」だけを言う人はせこい
だから、「努力をしろ」だけしか言わない人はせこいわけです。言った相手が努力できれば自分のおかげと言えるし、できなければそいつのせいにできるわけですからね。これほど意地汚くてせこいやり方を「努力をしろ」という人はやっているわけです。これは毒親にも通じるものですが、「勉強しろ」だけ言って何も教えないのとも同じです。教えないのにやれって言うし、教えてくれないのになぜできないの?と言ってくる、これほど相手を混乱させることはありません。むしろ、自分が教えられないことから逃げるために相手の努力不足にすることで現実逃避をしているわけです。
ネガティブな動機
「努力」できる人はネガティブな動機を持っていると言いましたが、ネガティブと言えども上記のように「右を向きながら左を見ろ」のようなことを言う人が親なり、指導者であった場合がアダルトチルドレンになるわけです。例えば、幼少の頃にいじめを受けていた人でも、「見返すために努力をする人」と「誰も信用できなくなり、努力する目標をなくしてしまう人」(アダルトチルドレン)の2つにわかれます。この2つに分けられる大きな要因は、信用できる人がいるかどうかです。その信用できる人というのは親であり、親を信用しているかどうかということです。親を信用しているということは親からも信用されているということでもあるわけです。だからこそ、たとえいじめを受けていたとしても親が必ず守ってくれると信じることができれば、ある意味で逃げる(精神的に安堵できる)ことができるわけですが、その親を信用できない(親が子供を信用しきれていない)と逃げる場所がなくなり、周りが全て敵に見え、努力云々の話ですらなくなるわけです。俗に、親が子供を信用しきれていないと言うのは、本当に親が子供を信用していないわけではなく、親が見せる子供への心配が子供からすると信用されていなのかな?という不信になるわけです。それを無意識にやってしまっているのが昭和な考え方の親で、その無意識を刷り込まれるのが昭和の育て方だったわけです。
おわりに
要するに叩いて頑張らせる(「努力をしろ」と言う)というのは、叩いて頑張っているように見えるのは叩いている人だけということです。叩いている人の自己満足にしかなりません。むしろ、叩いている人が頑張っていると思うのは、自分の思っている頑張っているの基準を満たせている人だけをそう言っているだけであって、叩いて頑張らせているわけでは一切ないということです。これが昭和のやり方なのであれば、パワハラはいつまでのなくならないのではないでしょうか。