はじめに
自分には理解出来ないことや知らないことを目の前にした時人はどう思うのだろうか。
ある者は学ぶべきものであると考え、ある者は無意味なものであると考え、ある者は善と捉えるのか悪と捉えるのだろうか。
知らないことをわかること
現代に生きる者は自分が理解出来ない、わからないことは悪であり下劣であると捉えます。決して自分が愚かでそれが学ぶべき対象であるとは考えません。自分が経験してきたものの中にこういった考え方はなかった、私が生きてきた中でこういった考え方の者は少なかった、だから悪だ、と。生きるためには多数であり続けることが最も楽です。そして偏った多数にするためにも少数を貶し、苛めることで多数の尊厳を守ろうとします。自分が理解出来ないことを認めるということは自分がもしかしたら自分が今まで下劣としてきたものになってしまうということです。人間は愚かであるからこそ、多数から抜けた少数をまた苛めます。こういった人間は多数と少数が反対になればまた都合の良い妄言を吐き始めます。私達は少数だが認められるべきだ、と。
彼らは都合の良いように現実を捻じ曲げ、しぶとく生き続けようとします。
ある意味、自分には理解出来ないことを悪と捉えることで自己を守り、保っているのかもしれませんが、例えそうであれ他人を見下し自分を崇高な者と自身で思うことは愚かです。反対に、他人を全て理解しようとし、全て理解した気になることもまた愚かです。根本として自分とは異なるものを完璧に理解することは不可能です。だからこそ完璧に理解しようとはしなくても理解しようとしてみること、理解できなくともそう考える者もいるということを知るだけでもその後の行動に大きく影響するはずです。
老害とは?
世の老害と言われる類の人は年代に問われず、自分の世界が全てだと思っている人全員に当てはまります。ですが、そうだとしても「老害」というように「老」という言葉からもわかるように5、60代以上に向けて使われています。これはここ数十年の間に技術が急激に進歩しすぎたために、もはや5年後と5年前では社会の景色が全く変わっており、人々の生活様式も全く異なっています。だからこそ、時代の最先端がいつも若い世代から始まるように、反対に言えばそれ以外は全て古いということになります。よく言われることに、老害は10年も20年も前の考え方で生きているとありますが、おそらくこれはここ数十年の間に急激に変化しすぎたからこそ変化に対応できなくなってしまっているようにも思います。ようやく若い人の文化を理解し、その感覚で若者に触れ合うとそれはもう時代遅れになっており、また若者を知らなければならないと。そうなれば、1年毎に新しい文化が生まれていく若者と1年も2年も遅れて若者文化を取り入れるようでは誰であれ老害になっていきます。だからこそ、老害はこの早すぎる文化の移り変わりに適応するよりも、適応せずに自分の時代を持ち出したほうが楽だになると考えた結果なのではないでしょうか。
おわりに
とは言え、結局自分の知らないものをなぜか自分の経験になかったから間違っているという謎の方程式を作ってしまっていることは明らかに間違いです。ですが、ここ数年ではセクハラだのパワハラだのクレーマーだのモンスターなんとかだのが増えたように見えるのも文化の急速な変化によるものなのではないでしょうか。そう思うと老害もまた同情もできるかもしれませんが。