日本人らしさが外国の影響だのなんだのと言い訳をしたところで、それを受け入れた上で日本らしさを残せなかったのは現代日本人の不出来な部分であろう。何十年、何百年後の日本の歴史として残る一方で、未来の日本人から「なんてバカなんだろう」と思われるもことも容易に想像がつく。そこまで日本が存続していればの話ではあるのだが。
過剰に反応しすぎることはどこを見てもそうだろう。SNSでも、ニュースでも、他人の不祥事でも、それが身内でも、友達でも。綺麗になりすぎた空気に少しでも異常が見つかれば途端にみんなが過剰に反応し始める。花粉症のように。イレギュラーやマイノリティーを排除、排除、排除していくことでよりまともな者というものが消えてしまった。ある母集団を事細かに切り刻み、分類し続ければ当然どれがマジョリティーであるのかはわからなくなる。それは同時に、だいたいこちら側という曖昧な部分で分割される。人を5:5でわけていれば選択肢は2つしかなく、現れるグループもまた2つしかない。しかし現代では1:1:1:1:1:1:1:1:1:1と全てを分類し、そこから似通った1をまとめている。だいだい6(1+1+1+1+1+1)とその他1,1,1,1というような感じで。ただでさえ分類とは曖昧なのにも関わらず、その曖昧さを倍増させてしまえば混乱することは至極当然と言える。うつ病のようなマイノリティーな精神病でさえも、パーソナリティ障害やHSPやなんとかかんとかと事細かくわけられていることを見てからもそれは明白であろう。精神病の細かい分類は人が細かくわけられるような差別意識から生まれたものにすぎず、差別がなければそもそもそれを作る必要がなかったわけである。差別に寛容となったわけではない。差別に対抗するために分類されたのである。差別という分類の元、曖昧さの拡大が人々を混乱させ、そしてその人々もまた差別することでねずみ講のように増加しているのである。
私の経験になるのだが、人の種類は2つにわけられる。「過剰に自分を防衛する者」と「過剰に他人を排除しようとする者」だ。少なくとも、『普通』に会話ができず、「自分の興味のあるものだけを押し付けてくる者」と「自分に興味のないものは全く理解を示そうともしない者」、何か予定を立てようとしても「責任から逃れるために全く参加しない者」と「自分のやりたいことだけを言う者」がというように、自分とそれ以外を極端にわけすぎるのだ。こういう経験はあるのではなかろうか?「遊ぼ」と言ってくる割には自分で計画をせず全て任せてくる人。「一緒に計画立てよう」とあくまで相手の意見も聞きますよという親切心を見せながらも、結局自分のやりたいことだけを選び取り自分のしたくないことはやりたくないと言う者が。なんとなくではあるのだが、このような感覚が世間に蔓延っているように見える。それが少数であれば良いのだが、それもまたSNSのような分割されたマイノリティーが集まりやすい場があるために、かつては悪い意味で少数だったもの達が悪い意味で多数になっているのではないだろうか。少なくとも、ある出来事に対して過剰に反応する「炎上」さらにそれに対しての過剰な白か黒かのような反応がそれを証明してしまっている。
何事も過剰に考えてしまう私が言ったとしても説得力はないのだが、それを差し引いても白か黒か0か1か、むしろ0か100かのような雰囲気があるように思う。何か両極端な気がしてならないのだ。