はじめに
私は以前にも発達障害という言葉があるべきなのかあるべきでないのかということに対して書きました。最近のことですが、「発達障害という言葉」について発達障害という言葉を知っている方と論争になりました。正直、相手の意図がわからず、おそらく私が言いたいことも伝わっていないような結果となり、気まずくなってしまいました。
ことの発端
まずなぜ「発達障害という言葉の有無」に対して論争になったのかというと、彼からその言葉が発せられ、それと共に私が少し発達障害に関して調べていたことと同じようなことを言っていたからです。彼の主張はというと、「発達障害は個性である」というようなものでした(おそらくそういうことを言いたかったのだと思います)。言わば、発達障害という言葉に差別的な意味が含まれるかどうかは全く考えずにそれも個性として扱うというものです。おそらくばっかりであれですが、おそらく彼は発達障害という言葉すらも恥ずかしがりとかおおざっぱとか朗らかとか優しいくらいの感覚として考えたいのだと思います。
ですが、私はそれに対して「そもそも発達障害というものがあることがおかしいのではないか?」、「発達障害というのであれば発達障害診断を全員が受けなければそれこそ差別になるのではないか?」、「母親の育て方次第で子供が発達障害みたいになるのではないか?」(お前はできないと言われることでやらなくなりできなくなって、結果本当にできない子になる)、「発達障害の増加も、言葉が増えたからではないのか?」など意見しました。すると、彼からすると、「そもそも発達障害とは」というものに違和感を覚えたらしく、納得していませんでした。私は発達障害という言葉を使うのであれば必ず全員が発達障害診断を受けなければ差別に繋がると考えているので、発達障害という言葉を使うのであればそうしなければならないし、そうしないのであれば発達障害という言葉自体を使うことが間違っているのでは?と考えています。かつ、発達障害があるにしても育て方次第ではどうにでもなると思っています(もちろん発達障害を考えた時に重度や軽度というものがあるので、そこを定義するのは難しいですが)。とは言え、全てが親の育て方だと言いたいわけではなく、発達障害というものをなかったことにできるくらい親の育て方は重要だということを言いたかったのですが、これにも納得していませんでした。
彼の主張の考察
私は「発達障害」というものに対して現時点で考えている暫定の答えを上記のような意見として主張してみました。ですが、どれに対しても納得いかないようで、「なんで発達障害が悪いものだと思うのですか?」とか「発達障害がそもそもとはどういうことですか?」というように質問をされました。ここから察するに、彼から見た私の主張は「発達障害というものをある意味で差別化しており、言わば発達障害を悪いものだと考えているからそういう考えになるのでしょ?それって間違っていませんか?」というようなものだと思われます。つまり、最初にも言ったように彼の中では発達障害というものは個性であり性格であるからこそ、差別云々とか、発達障害という言葉の語源が云々という話は考えない、というよりはそれを考える考えない以前にそういう考えがないという感じでした。
それも一理ある
結局、それを感じたのがお互いの意見が擦り合わずに、交差して気まずくなった後なのですが、そう考える前提があるのであれば確かに私の主張も言わば差別的だなと思い、それも一理あるなと思いました。確かに私も発達障害というものを個性として性格として考えるべきだとは思います(というか彼からすると「べき」というのも違和感かもしれませんが)。ですが、実際問題として少なかれ「私の子供は発達障害じゃないのか?」と思ってしまう親もいてしまうわけで、そういう疑いの中で育ててしまうと「やっぱりできないこなんだ」とできるようになることを諦めてしまうかもしれないわけで、発達障害を個性とか性格として考える以前に「できないこと」が個性になったら駄目でしょというのが私の考えです。当然そう言いましたが、それでも発達障害は性格や個性と彼は言い切りました。
彼の主張に対する疑問
彼の主張に対する疑問があります。上記でも言いましたが、私は少なかれ発達障害の一端に親の育て方があると考えています。だからこそ、遺伝子が傷つくことによるものでないのに、発達障害のような一面を持ってしまうことは遺伝子の損傷による発達障害を持った人に対しても(良い言葉が見つかりませんが)、良くないことです。そう考えるからこそ、人の一存で、考え方でどうにでもなる育児のせいでそういう子を生み出してしまうことがおかしいのではないか?と思うわけです。ですが、彼の主張を聞いていると、「母親の育て方云々ではなく、発達障害は個性や性格として認めるべき」というものなので、何か少しズレているなと思ったわけです。発達障害を個性や性格として考えるのであれば、そもそも発達障害でないのに発達障害のように育てられてしまった人のことは考えないのだろうか?というのが第一の疑問です。
そしてもう一つの疑問が、私が「発達障害という言葉を使うのであれば全員が発達障害診断を受けなければ、それこそ差別になるのでないか」というものに対する反論です。彼の反論は「それは違う」でした。明確な理由は言わなかったのですが、「発達障害という言葉を使うのであればみんなが発達障害診断を受ける必要はないと思う。別に全員が発達障害診断を受けなくても良いと思うけど」とのことでした。確かに、彼は元々発達障害を差別と考えていないからこそ、性格とか個性として主張しているのでそもそもそう考えていないのなら前提が私と被っていないわけなので、そう言えるかもしれませんが、そこはいくら発達障害を性格や個性と考えてもこれだけは意見が一致しなければならないのでは?と思いました(これも私側の意見なのでなんとも言えませんが)。
つまるところ、彼の意見はもっともなのですが、彼が私の主張に違和感を覚えているように、私の主張に違和感を覚える彼に私は違和感を覚えました。言わば、発達障害を性格や個性と考えているのであれば、そもそもなぜあなたの口から「発達障害」という言葉が出てきたのか?ということです。もし、発達障害を本当に個性や性格と考えているのであれば発達障害なんて言葉は出てこないわけで、言わなくても良いわけです。ですが、それを口にしたということは一つは過剰な正義感、もう一つが自分の「発達障害は個性や性格だよ」という主張を相手に理解してほしい(orさせたい)というものだと思います。後者に関して言えば、私の主張も言わば理解してほしいというものなので、どっちもどっちなのですが、仮に前半で合った場合は少し危ないなと思いました。
とは言え、こういうことをその場で言えたら良いのですが、それ以上言うとおそらく険悪になってしまうので控えました。
おわりに
私は彼の言わんとすることや、言っていることは理解できますし、その通りだとも思います。私が今まで考えたことのない方面での考え方だったので、「あ。そう考えるのなら、そういう答えの出し方もあるのか」と新しい発見になりました。人の意見は異なっていようが受け入れなければ何も始まらないし、そうしなければ議論は常に平行線なのでやはり受け入れることが重要だと感じました。とは言え、私個人としては、私の主張は理解しなくても良いから少しは受入れてほしかったなと思ってしまいました。結局は2人共の前提の位置が違うので理解し合うことは難しかったかもしれませんが。その前に発達障害でない当事者同士で争っているのがおかしな話ですね。
あなたは発達障害という言葉にどういう考えをお持ちでしょうか?