アドラー心理学の嫌われる勇気を途中まで読んだので、途中ではあるのですが日本と繋げた時にふと思ったことを書きたいと思います。
ポジティブ思考が目的論だとしたら、ネガティブ思考は原因論
途中までしか読んでいないので間違っている可能性はあるかもしれませんが、今の所出てきた言葉は「目的論」というものです。それの反対の言葉として「原因論」があるというものです(どちらかと言えば、原因論があって目的論なのかもしれませんが)。原因論というのは「私が勉強できないのは教育システムが悪いからだ」と、「教育システムが悪いからだ」という環境に対して、「だから勉強ができないのだ」と自分以外に原因があると考えることです。ですが、アドラー心理学においてはこれを否定?しており、「勉強ができない」原因は「教育システムが悪い」と言い訳をして勉強しようとする一歩を踏み出さないことにあるという考え方だそうです(少し言葉が悪いかもしれませんが、「教育システムが悪いからだ」という部分を「貧乏だから」という言葉に置き換えると良いかもしれません)。もちろん、アドラー心理学上でも環境が人に影響を与えることを否定していません。言わば、彼の考え方から見ると「勉強ができないという言い訳をするために」、「教育システムが悪いからだ(貧乏だから)」と言っているにすぎないということです。言い換えれば、本当はやればできるのに環境のせいにして自分がやらないことにただ理由付けをして言い訳しているにすぎないということです。つまり、彼の考え方としては環境や何かが人に影響を与えていることは間違いではないが、それを打破するには自分でどうにでもできるということです。少なくとも、原因論的に考えることが悪い!と頭ごなしに否定しているのではなく、上記の例で言えば「勉強を頑張ってみる勇気を持とう」という勇気を持ってみるというニュアンスがおそらく彼の考え方だと思います。
日本社会がネガティブな原因論
今から話すことは原因論になってしまうのですがと前置きしておいて。日本人というものを大きく見ると、なんとなく雰囲気が原因論っぽくはないでしょうか?前回に親の子育て上、社会のせいにして子育てがまともにできないことに言い訳をしているのではないか?ということを言いました。近年頻繁に耳にする「毒親」とか「アダルトチルドレン」とか「機能不全家族」とか「引きこもり」も言わば、家族を構成する「個」が自分に責任を負わずして、他責的に自分のことばかりに焦点を当てているからそうなってしまっているように思います。子育てにしても、「子供が泣き止まない→引っ叩いて泣き止ませようとする」というこの行程にしても、「ぐずって歩こうとしない→抱っこする」という行程にしても原因論的といえるのではないでしょうか?(少しニュアンスが違うかもしれませんが、押し通ります)。たとえば「子供が泣き止まない→引っ叩いて泣き止ませようとする」の例で言うと、子供が泣き止まない→引っ叩くという行程は子供が泣き止まないから引っ叩いたというように見えますが、実情は子供が泣き止まないからという言い訳を使い自分が不愉快だからと自分の怒りの欲望を子供にぶつけているだけにすぎません。言わば、親からすれば「子供が泣く」という環境のせいにして、自分が「叩く」という行為に言い訳しているだけにすぎません。2つ目の「ぐずって歩こうとしない→抱っこする」ということもまた同じです。一見すると優しい親に見えるかもしれませんが、ぐずって歩こうとしない子供をすぐに抱っこしてしまうとぐずれば抱っこして楽ができると考えてしまいます。すると、これからもずっと楽をするためにぐずりだし、終いにはぐずるという行為を子供自身がやめられなくなります。言わば、ぐずった子供をすぐに抱っこするという行為には親のさっさと移動したいという自分の欲望を先行させた結果がそうなってしまっているということになります。言い換えると、たとえば帰宅途中であれば自分が早く帰りたいという欲望のために子供を抱っこするという選択をとっているということです。子供がぐずったからという環境を言い訳に、子供をゆっくりでも良いから自力で歩かせるということをしないわけです。
このように、親の欲望を優先してしまうと、「毒親」とか「アダルトチルドレン」や「引きこもり」のようになるというわけです。親の欲望を優先して子供の我儘を肯定してしまうと、3歳であれ10歳であれ18歳であれ25歳であれ40歳であれ親に対してグズればかまってくれると子供自身が思ってしまいます。そうなれば、子供からするとなぜかまってくれないのか?そんな親は子供を愛していないのではないのか?親として失格だとズレていき、最後には社会問題になってしまうということです。
無論、子ども自身もそのままではいけないので原因論的に考えてはいけないのですが、やはりそれよりも先を生きる親がそういう生き方をしてしまっているのであれば考えようです。もちろん、社会的に子育てが辛い環境ではあると思います。時々社会のせいにしたくなることもあると思います。ですが、子供のためを思うのであればそこは頑張らなければならないところではないでしょうか。
あくまでアドラー的に
とは言え、これは「親」という単位で考えた話であり、少なくとも社会として考えてはいません。今思い出すだけでも、車離れは若者のせいとか、出生率が上がらないのは若者が子供を産まないからだとかもまさに若者だけのせいにして、言い訳ばかりする原因論的ではないでしょうか。とは言え、私もアドラー的に考えていかなければならないですが。
いつも思うのですが、何かを話す時に必ずといって良いほど黒か白かのような論争になることに疑問を感じます。少なくとも、物事は黒か白かではなく2割と8割とか7割と3割とかで割合として見なければならないこともあるし、というよりもはじめは黒で良いが次第に白になることが良いということもあるわけです(良いとか悪いとか言いたいわけではないですが、伝わってください)。今回のようにアドラー心理学に関して言えば、恐らくいきなり原因論をなくせと言われたところで可能性としては難しいと思います。だからこそ、まず自分に向き合うことで一度なぜこうなっているのかを考えた末に、変わりたければ自分で変わるしかない。だからこそ、アドラーのように考えていくことが良いという結論に持っていくということが良いのではないでしょうか。2つのことが対立しているからといって必ずしも対立しなければならないのではなく、まずどうなっているのかを考える必要があると思います。表か裏かではなく、表裏一体です。