はじめに
人というものは他者がいなくては成長できないものだと思っています。他者は自分を肯定してくれるし、もしくは人として注意してくれることもあります。ですが、そんな中でもやはり「人のためを思った注意」と「攻撃したいがための注意」というものはわかるものです。今まで私が受けてきた注意というものをその2つのタイプを例に話したいと思います。
人を攻撃したいがための注意
自己愛性人格障害というものを以前にも紹介しましたが、簡単に説明すると自分の保身のために相手を攻撃する人?というか性格?のようなものです。言わば、揚げ足取りです。相手よりも自分が優勢であること、もしく劣勢であることを強調してきます。優勢であることというのは、例えばその人に対して「人に文句ばかり言って攻撃する人ってどうなんだろうね?」と聞いたとすると、「そんなものでしょ。」と返してくるような人のことです。どういうことかと言うと、「人の中にはそういう人が多くいるし、そんな人達を受け入れて『そんなものでしょ』と言える俺の心が広くてすごい」ということを表現しています。本来であれば、なぜそういう人になってしまったのかというのを議論して対処法などを話し合いたいのですが、自己愛性人格障害にとっては揚げ足を取ろうと、優勢であろうとすること、そのせいで相手を見下しているからこそ、議論しようとせずに「そんなものでしょ」と言って、議論をしないことで自分がいつまでも優勢なままでいられるようにします。
次に、劣勢であることを強調するというのは、簡単に言えば「俺、今日、3時間しか寝てない」というのが最もわかりやすいのではないでしょうか。とは言え、自己愛性人格障害となるとそんな安いものではないですが、言わば、「自分の方が劣っているから可哀想に思え!」と押し付けてくることです。「俺は昔から病弱で何をしてもすぐに体力が奪われ、生まれつき人と同じ人生じゃないんだよね」と言ったとすると、その言葉の真意は「だから、同情されるべきであるに違いない」と自分に注目を置こうとします。なんとなく主人公気質な人でしょうか。
優勢を強調する人の攻撃の仕方
ちなみに優勢を強調する人どう攻撃してくるのかというと、自分が優勢であることを示すためには話し合うまえに話をしないことです。議論し合う前から「わかったわかった〜ということでしょ?そんなことわかってるって」と勝手に結論を決めつけて話をそれ以上聞かないということです。言わば、結論を先に決めてしまい、相手を否定して自分に都合の良いことだけ言い、仮に相手がそれでも何か言ってくるようであれば、「お前は馬鹿だ」とか「お前は何もわかっていない」とか「そんなこと言ってるからだめなんだ」と暴言を吐いてそれ以上何も言えないようにします。心のやさしい人であれば、毎度それに付き合わされ、「この人を理解できない俺/私ってだめな人だな」と自分を追い込んでしまいます。これが優勢を強調する自己愛性人格障害の攻撃です。
劣勢を強調する人の攻撃の仕方
そして劣勢を強調する人がどう攻撃してくるのかというと、自分が劣勢であることを示すために、どれだけ自分が可哀想なのかというアピールをこれでもかと言ってくることです。自分が可哀想であることを強調して、少しでも相手に罪悪感を与えて、同情を引くことで注目の的になることが目的です。心の優しい人であれば、「そんなにも可哀想な境遇にいるなんて、、、私はもっと頑張らないと」と自分を追い込みます。ですが、自己愛性人格障害はそこでまた「そんなに頑張っても意味ないよ」とか言ってその頑張りを「否定」します。ついには心の優しい人は心を蝕まれ疲れ果てます。これが劣勢を強調する自己愛性人格障害の攻撃です。
本題:「人のためを思った注意」と「人を攻撃するための注意」の違い
人のためを思った注意
前置きが長くなりましたが、「人のための思った注意」と「人を攻撃するための注意」の違いというものは注意した言葉の後に余計な言葉がつくかどうかです。私が受けた注意で納得できたものは、「頬杖をつかない方が良い」と先生に言われたこと、「ため息はやめた方が良いよ」と先輩に言われたこと、「口癖になっているネガティブな言葉をやめた方が良いよ」と親しい人に言われたことです。なぜこれらの言葉をすんなり受け入れることができたのかと言うと、その言葉以外に何も言われなかったからです。「頬杖をつかない方が良いと」と言われたときは、相手から見た自分というものを意識してなかったからこそ頬杖をついてしまっていたのであって、頬杖をつくということが先生という視点から見ても失礼であるということを認識することができかたらです(他にも理由はあるかもしれませんが、私はその時はそう受け取りました)。「ため息はやめたほうが良い」と言われた時も、先輩から「ため息してると『疲れてるのかな?』と心配するじゃん」と言われこれもまた他人からため息というものが悪く写っているということに気付かされたからです。「口癖になっているネガティブな言葉をやめたほうが良い」と言われた時も、こういうポジティブな言葉に言い換えてみては?と提案してくれました。言わば、彼らの言葉が受け入れられたのはそれを続けるのは良くないという「気付き」を与えてくれたことと、その後にポジティブな理由をつけてくれたからです。私はネガティブ思考だと思っており、何かを変えようと、変えられるということをわかっていませんでした。だからこそ、ネガティブな発言や言動を変えてみる、もしくはやめることでポジティブに考えていくことができるのでは?と思ったからです。
人を攻撃するための注意
反対に「人を攻撃するための注意」というものに上記の例に当てはめてみると、「頬杖をやめたほうが良いよ」は「頬杖をやめたほうが良いよ。だからお前はやる気なさそうに見えるんだ。そんなのだからいつまでも適当に生きているんだ。」になり、「ため息はやめたほうが良いよ」は「ため息はためが方が良いよ。そんなのばかりしていると、幸せが逃げるよ。だから今までの人生も不幸だったんじゃないの?それって自業自得じゃない?」となり、「ネガティブな言葉はやめたほうが良いと」は「ネガティブな言葉はやめたほうが良いよ。そんな言葉ばかり言っているからネガティブになるんだ。そんな人生歩むくらいならポジティブに考えたら?俺ならそうするけど。」という風になります。
何が違うのか?
結論から言うと、注意の言葉の後に余計な相手を追い込むような言葉を入れていないということ、更には自分のほうがすごいもしくは可哀想という自己主張するための言葉が入っていないことです。人を攻撃する人というのは少なくとも、目的が自分を主張することにあるので、注意しているにも関わらずなぜか途中から自慢になっていたりするとそれはすべて揚げ足を取るための攻撃にほかなりません。他にも、3つ目の例のように一見正しいことを言っているように見えるのですが、ならどうしてみるのが良いのか?という提案を全くしてくれていません。言わば、シュートが入らないことに対して「なぜシュートが入らないんだ!この役立たずが!」と言ってくるくせにどうすれば良いのか?ということを聞くと「練習しろ!」しか言われないようなものです。注意するということは、相手に変わってほしいと思うからであり、相手を陥れるためにするものではありません。であるのなら、注意をした時点で相手が良くなるような言葉をかけることが正しく、それをしないのは全て自己満足とただの攻撃にしかならないということです。
おわりに
自己愛性人格障害とはこんなやつだ!とか、こいつらが悪いんだ!と言いたいわけではありません。ただ、人を攻撃する人の心理として自己愛性人格障害という言葉が最も当てはまっていると思ったからです。だから、彼らが障害を持っている!と言いたいのではなく、それ以外の適正な言葉が見つからなかったので「人を攻撃する人」を表すための代替えの言葉として自己愛性人格障害というものを使いました。そして、今回の本題は相手のことを思った注意というものがしっかりを相手を動かすことができるし、相手を注意するときに自分本意なことを言ってしまってはそれは反対に反感を得るようなものです。これは子育てにも当てはまると思います。自分がムカついたから、自分が忙しいから、私はこういう考え方だからという理由で子供を注意してもそれはただの暴力、暴言でしかないということです。しかも、受け手側からすればこのような含みを持たせた注意や叱りというものは見え透いてわかります。これが見え透いていることがわからないのは発信者側です。だからこそ、「人のふりをみて我がふりを直せ」とはそういうことです。とは言え、もちろん相手をことを思っているんだから良いでしょ!というエゴはだめです。もちろん、注意が全てエゴではないかと言われれば当然そうではありませんが。もう少しポジティブになるような言葉を最後に添えて注意してみることはできませんか?