- はじめに:嫌われる勇気を手にとって
- なぜアドラー心理学の嫌われる勇気を読めるようになったのか?
- 解決策は【自分の思っていることを書き出す】
- 現在と過去の自分
- 自分に軸を置くためのアダルトチルドレンという言葉の発見
- おわりに
はじめに:嫌われる勇気を手にとって
以前にも書きましたが、現在、アドラー心理学の嫌われる勇気という(失礼ですが)少し前に流行った本を読んでいます。ですが、私自身この本を読もうと思う日が来るとは全く思っていませんでした。以前の私であれば「アドラー心理学なんて強者ができることでしょ?」と勝手な憶測で嫌われる勇気という言葉を、「自分が好かれている人が読む本だ」と検討違いな馬鹿な解釈をしていました。もしかしたら中には同じようなことを思っていらっしゃった方もいるかもしれません(そう思っているのが私だけでしたらすみません)。ですが、勝手な憶測と想像をしてしまっている自分というものは「読まないことでわかった気になっている」ということに気付きました。そう気づくまではなかなか時間がかかりましたが、今回はなぜ「嫌われる勇気」を読めるようになったのかまでを説明したいと思います。
なぜアドラー心理学の嫌われる勇気を読めるようになったのか?
前回にも書きましたが、アドラー心理学は目的論的な考え方をするそうです。少し意味合いが異なるのですが、近い言葉で言えば自己責任論であるとか、全ての原因は自分にあるというような考え方です。私もアドラーの嫌われる勇気を読もうと思う前までは、この人の考え方はどうせ恵まれた人にしかできないことだろうと思っていました。ちょうどこの本に登場する青年のように。ですが、よくよく考えるとそれは「過程」の問題であって、恵まれた人にしかできないと思っていたときは受け入れるはできませんでした。言わば、アドラー心理学はひとまず「自分を変えなければ」と思わなければ始まらなかったというわけです。反対に言えば、「俺/私は変われない」と思っている人が読んでも「アドラー的に考えられない自分なんて」と自分を苦しめることになったり、なおさらこの考え方に嫌悪感を抱くと思います。ですが、自分は自分のために生きるんだ、そのためには自分で変えていくしかないんだと思えるようになることで、ようやくこの考え方を受け入れられるようになります。実際、私もこの考え方を「あ〜そうだよね。」と思えるまでに、このブログを書き続けた分の月日がかかっているわけです。
解決策は【自分の思っていることを書き出す】
嫌われる勇気を読もうと思えるようになったのはごく最近のことです。それまでは自分がなぜこのような性格になっているのか、その原因は何なのか、自分は何を考えているのか、自分が今まで嫌だと思ったことは何なのか、自分が今まで空気を読んで黙っていたことは何なのか、そもそも空気を読んで黙るようになったのはなぜなのかということをひらすら考えていました。考えて考えて考えて朝起きたときから夜は眠れなくなるほど、ずっと考えていました。本当に辛かったと思います。まずはじめに「生きることは何か?」ということから始まり、「生きる意味がない」という結論に至り、「人が生きる意味がないのならなぜ生きる必要があるのだろうか?」と自暴自棄になっていました。おそらく、自己嫌悪や自尊心が低いと必然的に「生きる意味」を考えてしまうと思います。他にも、そもそもなぜ自分が生きる意味を考えなければならない状況に陥っているのかということを考えたときにでた結論は「親が生んだからだ」に至り、反出生的な考え方をしました。そこから、最終的には「毒親」という言葉に行き着き、親と環境によって自分の生き方や性格や人生が決まるという結論を出していました。
現在と過去の自分
ですが、今の自分からするとそれは「結論」ではなく、「過程」だったということに気づきました。確かに、生きる意味はないし、親が生まなければこうはなっていません。とは言え、私は生きているわけです。実際のところ本当に死にたいと思うこともありました。ですが、死にたいと思う中で、「本当に」と言っているのに死んではいない。死にたいと思うだけで自殺まで行動することはありませんでした。そこで私は「死にたい」と思うほどしんどいことは本当ではあるけども、実際に死んでいないのであればそれは死にたいというわけではないのかもしれないと思うことにしました。とは言え、そう思った後は毒親関係の考え方(他責的)になってしまっていたのですが、それもまた自分にとっては良かったことではあります。もちろん、私が勝手に自身の親を毒親判定しているにすぎません。何はともあれそう思ってしまったからです。ですが、死ぬという選択肢をとらなかったのであれば、毒親と言い続けることもまた難しく感じました。
自分に軸を置くためのアダルトチルドレンという言葉の発見
そこで私は毒親という言葉よりは自分に焦点をあてている「アダルトチルドレン」という言葉を発見しました。これも以前ブログで書いたことなのですが、毒親とアダルトチルドレンという言葉は責任の焦点が親にあるか自分にあるかによってその時々に受け入れられる言葉が変わってくると思います。言わば、毒親という言葉を使っているとどうしても他責的になってしまうわけであり、「自分はアダルトチルドレンだ」と焦点を自分に置換することで自責的に考えようとなったわけです。そこからはアダルトチルドレン関係のサイトを調べてみたり、実際にアダルトチルドレンの相談をしているインターネットのサイトに相談も1度だけしてみました。薄々自分でも気づいていたのですが、私はこの悩みを「誰かに聞いてほしい、そして理解してほしい」という気持ちでいっぱいでした。アダルトチルドレンの相談サイトに行き着く前は「どうせ誰も私のことなんて理解しないだろう」と勝手に決めつけ、「肯定的に受け止めてくれる人」がいるにも関わらず自分で壁を作ってしまっていました。相談してみて驚いたことなのですが、やはり自分を理解してくれる人(というより、アダルトチルドレンという言葉を理解している人)に聞いてもらうだけでかなり気分が楽になりました。そこから私は「相談相手は自分で選ぶことができるんだ」ということに気づいたわけです。今までであれば、万人に相談して理解されないのなら意味がないと、アダルトチルドレンの知識がない人に相談してしまっていたために否定的な言葉が返ってきてさらに落ち込むという自爆行為を行っていました。とは言え、そうなることで自分の過去を振り返り、文章に書き出し、適切な人に相談し、「選択」があることに気づいたので全ては「過程」だったわけです。そこから私は変わるためには自力だけでは不可能だということに気づき(自分で変わるのは無理と言っているわけではありません)、そのためには私というものを適切に客観視してくれる人に相談しなければならないと思いました。そこで、今まで生きてきた中で唯一頼れる大人のところへ行き、今自分がどう思っているかを全て話しました。すると、今までにない反応があり驚きました。その人は私の話す全てのことを全て最後まで聞いてくれ、一度も話を遮らず、否定もしませんでした。私には「否定をしない人がいる」ということをに驚くとともに、「理解してくれる人がいる」という事実は安心と安堵をもたらしてくれました。そして、そこから少し経ってようやく嫌われる勇気が読めるようになったわけです。少し付け足すと、「理解してくれる」というのは別に全てを理解してくれるという意味ではありません。ただ、自分のおかれている状況に関しての知識(=偏見がない)がある人を選ぶことでも効果があるというわけです。人生に指導者がいないと思っていましたがそうではありません。たとえば、サッカーを何十年としているプロとサッカーを未経験な人にアドバイスを貰ったとしてもそれらが全く違うことは当然です。言わば、私はそこにおいて「プロ」と言えるだけの知識がある人に相談したことが大きな利点だったということです。おそらく、人が信用できない状態であると、どうしても「全ての人に理解されなければ」と極論になってしまうと思います。ですが、この世の人は全て違うわけであり同じ人生を歩んでいるわけではありません。だからこそ、相手を理解しようとしなければならないのですがどうしても偏見や決めつけをする人は現れてしまいます。ですが、彼らもまたそういう風に育ってきてしまったわけであり、あまり言いたくはないですがどうすることもできないわけです。で、あるのなら自分が適切な人間関係を選べば良いということになります。(とは言え、私もそれだけで終わりたくありません。どうしたら違うことを理解してくれるのか。どうすれば相手に好意的に説得することができるのかということはこれから私が考えていかなければならない課題でもあります)
おわりに
長くなりましたが、ここまできてようやく読めるようになりました。長かったと思うとともに、自分には必要な時間でもありました。今でもなにか考え出してしまったときには、このように文章に書き出すようにしています。この方法はかなり効果的なのではないでしょうか?と自分は勝手に思っています。事実、思っていることを書いていくと頭の中がかなりすっきりします。パソコンで言えば、デスクトップのいらない書類をゴミ箱へ入れて空っぽにした感覚です。頭の中のごちゃちゃしたものを文章にしてしまい、頭の中のごちゃごちゃを少しでもなくしている感じです。とは言え、他人の考え方が変わりましたという長ったらしい文章を読んだ結果が「文章に書き出してみる」ではなんとも言えないですが、おすすめしてみます。結局これも自分の現段階の頭を整理するための総集編みたいなものなので、書けばかくほど長くなっていくのでここらへんで切りたいと思います。もう少し短くかければよかったですが。